55歳でキャリア官僚からNPO代表に。「やりたいこと」はアクションを起こすことで見えてくる/NPO法人農商工連携サポートセンター代表理事 大塚洋一郎氏

コラム&インタビュー

  しかし、キャリア官僚として、さらに上の職位を目指す道もあれば、定年退職後にはより待遇の良い再就職先も用意されていたはずです。

大塚 確かにそういう道もありました。でも、審議官の上の局長になってしまったら、それこそ簡単には辞められなくなります。定年退職後の再就職についても、1〜2年ごとに人事の指図であちこちローテーションされていくわけで、自分の意思では何一つコントロールできないし、決められない。そういう生き方はしたくありませんでした。

  なるほど。そういう経緯で55歳での早期退職を決意されたのですね。同時に起業に向けて動き始めたということですが、なぜNPOだったのですか?

大塚 経済産業省時代、農商工連携のほかに、ソーシャルビジネスやコミュニティビジネスの拡大政策に携わっていまして、そこで出会ったNPOスタッフの方々が、皆さんとても活き活きと働かれていたんです。私自身、社会に貢献する仕事をするために公務員を志したこともあって、その姿がとても輝いて、魅力的に見えました。

でも、NPOを設立するといっても、何をどうしていいかわからなかったので、2007年にコミュニティビジネスサポートセンターというNPO法人が主催する講座を受講しまして、NPO法人の立ち上げや運営について学びました。この講座は非常に実践的な内容で、特に演習で行った事業プラン作成は農商工連携サポートセンターを立ち上げる際にも大いに役立ちました。

  農業をテーマにされたのは?

大塚 農商工連携促進法の制定・運用に関わるなかで、農業に関心を持ったのが最初のきっかけですが、決め手になったのは、山梨県のNPO法人「えがおつなげて」が主催する耕作放棄地の開墾プログラムに参加したことですね。

私が行った山梨県の耕作放棄地ではススキが一面に茂っていて、それを根から引っこ抜くのですが、ススキの根は直径1メートルもあって、ちょっとやそっとでは抜けません。そのため、3〜4人で1つの根っこを取り囲んで、スコップで掘り返すわけです。15分ほど掘り進むと、ようやくボコッと根っこが抜けるのですが、その瞬間、仲間たちと頭ではなく、身体で喜びを分かち合えるというか、右脳がビビビッと刺激される感覚があり、最高にしびれましたね。身体の奥底から喜びが湧き上がり、創造力がぐっと高まっていくようにも感じられて、「どうだ面白いだろ?」と言われているような気がしました。

  それが農商工連携サポートセンター誕生の契機になったわけですね。設立からもう10年が経過しましたが、順調に進んでこられたのですか?

大塚 いえいえ、本当に山あり谷ありです。農商工連携や食農起業に関する講習会や農業体験ツアーなど、いろいろな事業を展開してきましたが、最初はなかなかうまくいきませんでした。しかし、2011年に東日本大震災が発生し、被災地の農業支援に取り組み始めたことが一つの転機になりました。

津波で塩害を受けた農地に「塩トマト」という塩に強い品種を植えるツアーを企画したところ、定員の倍近い数の方から応募が殺到しました。また、この活動がNHKで大きく報道されたこともあり、多くの企業から「一緒に農業支援をやりたい」という連絡が入るようになったんです。結果、企業から寄付金をいただいて、被災地の農業支援をするのが、最初の一大事業になりました。

市町村アンテナショップ「ちよだいちば」。大塚氏を含め7名のスタッフで運営している。

そして、被災地の農業支援事業がひと段落した後、2014年に「ちよだフードバレーネットワーク」を立ち上げました。これは全国の市町村と千代田区、農林漁業者と消費者を官民連携によって結び付けようという試みで、現在では千代田区と73の市町村が参加するまでになっています。

2015年には、ネットワークの主たる活動として、市町村のアンテナショップ「ちよだいちば」を開店。月替わりで全国の市町村の産物を販売すると共に、「ちょい飲み」「料理教室」などの交流イベントも開催し、大変好評を得ています。